三咲 円

一人旅で拓く心の郷愁

「五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」

(古今集・巻3 夏歌139)
五月を待ちかねて咲く橘の花。その花の香をかぐと、昔愛していた人の袖に付いていた香と同じ匂いがして、その人のことを懐かしく思い出す。

写真は橘の花

これは、古今和歌集で取り上げられた読み人知らずの歌です。
 橘は「昔の恋を思い起こさせる花」として、平安の昔から多く歌に詠まれる柑橘系の植物で、晩春から初夏にかけて、小さな白い花を付けます。
 この言葉の謂れは伊勢物語(第60段・「花橘」の帖)の中に見つけることができますが、作者自身が妻との長い別離の後に思いがけず再会した宴会の場面で、元妻の目の前で橘の実を手にしながら詠んだ歌が、妻の心にも夫婦の郷愁の想いを想起させたことに由来しているようです。これ以降から「橘の花」を題材にして詠む歌のほとんどが昔の恋を思い起こすものとなり、花言葉が「追憶」とされているといわれています。

 また橘は、文様や紋章でもあらゆる「由来」を背景にもつ神聖な樹木でもあります。「橘」を紐解いて検索してゆくと、まるで時空を超えて一人旅をしているような気持ちになります。歴史好きでない限り、自ら古(いにしえ)の書物や古地図を眺めて悦に入るようなことはないかもしれませんが、偶然出会ったキッカケで現代に繋がるルーツを発見することも、自身の「郷愁」と出会う穏やかなひと時を与えてくれるかもしれませんね。

 橘という植物が、日本の歴史に登場してきたのは、かなり古く、古事記の記述によれば、11代垂仁(すうじん)天皇の時代に、新羅からの渡来人・天日槍(あめのひぼこ)の後裔・田道間守(多遅間毛理・たじまもり)が、理想郷・常世国(とこよのくに)に派遣されて、非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を探しています。

 この当時から、非時香菓は特別な霊薬であり、その実を食べれば不老不死の命を与えられると信じられていました。田道間守は、これを持ち帰ったものの、すでに天皇は亡くなっていて、食べさせることは出来なかった。古事記の本文中には、非時香菓は「是今橘也」と記されているため、橘が「不老不死」の樹と認識されていたと理解してよさそうです。

 その後、時代が下がっても、橘が代々の天皇に愛されていたことに変わりは無く、それは、平安王朝時代の内裏・紫宸殿の前に、この樹が植えられていたことでも判ります。これが、「右近の橘、左近の桜」であります。

 こうして橘は、「追憶」あるいは「不老不死」の花として、人々が愛しみ、今に至っているのです。

 冒頭に紹介した和歌にあるように、香りというのは、香り単体で脳内に記憶されているわけではなく、その香りと共に場面ごと蘇らせる体験を呼び起こす、五感の中でも特異な性質をもっています。それは、嗅覚から入った香り分子が、嗅覚受容体を経由して直接脳に情報伝達されるしくみがあるからで、それが「体験」としての複合的な統合を大脳内でやっていることに関係していると思われています。

 たとえば、深呼吸をするとき、鼻から入ってくる空気を鼻腔の奥まで吸い込んでみると、鼻腔の最深部にある嗅覚が、吸い込んだ空気の「香り成分」とそれを「媒介したモノ」を脳にしらせてくれるのですね。

 今はアロマで好みの香りを身の回りに漂わせることで癒しを求めるようになりましたが、その源流は自然環境から抽出した「精油」や「香木」。そして、どの香りも「生命」の還流香なのです。

 体験と記憶が香りによって呼び覚まされるとき、その記憶の多くが幸せの一場面であることに気づくと、人生が愛おしく感じられるでしょうね。五感で生きる中での「香り」の役割は、思う以上に素敵なのです。

 最近、20数年前に住んでいた町に旅をしてきました。中心街の景色は大きく様変わりしていましたが、当時よく訪れた郊外の懐かしい場所に行くと(野外の広大な公園)そこに吹き渡る風の匂いが何ともいえず、全身で深呼吸してしまいました。不思議ですね。風の匂いが風景と一緒になって一気に「あの頃」を連れてくる。旅の土産は「香り」といってもいいかもしれません。

 そして、実際に旅をしなくとも、身の回りには無数の「香り」が満ちています。どんな香りに囲まれて生きているのか、意識的に嗅覚の遊びをするのも良いかもしれません。それは、心の一人旅。きっと、香りが新しい発見を導いてくれることでしょう。

 この先の未来をどう生きたいのか。どんな香りの空間ですごしたいのか。そんな選択肢も案外ありかも。人生は香りに満ちている(笑)

 ついでにお伝えしますが、わたしは5h‘を手に取って顔全体に広げながら、手のひらから立ち込める「香り」をめいっぱい鼻腔の奥まで吸い込んでいます。鼻腔の奥で香りを嗅ぐと、脳内まで届く癒しが実感できるのです(個人の感想です)まさに、香りマジック。

 良い香りに出会ったら、是非、鼻腔の奥で香りを感じてみてください。

TOP